レンガタイルの壁を、つくるということ

壁面全体で焼き物の色彩を楽しむ
レンガタイルの特注品という仕事に、長く携わってきました。
気づけば、もう三十年以上を超えてしまいました。
土味たるレンガタイル。
還元焼成の深い色合い。
酸化焼成窯変のやわらぎ。
引き立て役の目地。
焼き物ならではの不揃いと、揺らぎ。
それらをどう組み合わせ、どう積み上げ、どう壁として成立させるか。
それは単なる外装材の話ではなく、建築の表情そのものをつくる仕事です。
レンガタイルの特注品は、正直に言えば、
RC造のコンクリート住宅、いわゆる「豪邸」と呼ばれる種類の建物で使われることが多い素材です。
外壁面積は300㎡を超え、
構造体が重量に耐え、
施工条件も整い、
コストも確保できる。
そういう条件がそろった建物でこそ、
堂々とした厚みと量感を持ったレンガの壁が成立する。
東京という都市においては、
土地の価格も高く、敷地は小さく、
木造住宅が主流になり、
外壁に重い焼き物を貼るという選択肢は、
年々、現実的ではなくなってきています。
施工性。
重量。
予算。
工期。
すべてが「やらない理由」を後押しします。
100㎡程度の木造住宅で、
外壁にレンガタイルを貼るという計画は、
よほど施主が最初から強く希望しない限り、
設計者の側から積極的に提案されることは、ほとんどありません。
それは当然のことです。
設計者は常に、合理性と現実性の中で設計をしています。
建築は夢だけでは成立しません。
けれど、私は知っています。
100㎡の木造住宅であっても、
本当に価値のあるレンガ壁は、つくれる。
規模ではありません。
価格帯でもありません。
重要なのは、設計と素材と施工が、同じ方向を向いているかどうかです。
小さな壁面であっても、
内装の一面であっても、
選ぶタイルと、目地の設計と、貼り方次第で、
その空間の「格」は、まったく別のものになります。
ファッションの世界で言えば、
高級ブランドのセレクトショップのような感覚です。
既製品であっても、
選び方と使い方によって、
オーナーが誇れる壁面は、必ず実現できる。
内装の一部にあるレンガタイルの壁。
それは、本当にかっこいい。
マンションのスケルトンリフォームでつくるレンガ壁。
都内の無機質なコンクリートの箱の中に、
一面だけ現れる焼き物の壁。
あれほど建築的な「贅沢」は、なかなかありません。
しかし現実には、
私たちの仕事は、社会の中ではほとんど見えていません。
地方に旅行へ行くと、
ふと感じることがあります。
ああ、自分の仕事は、
この世界とは、ほとんど無関係なのだな、と。
観光地の町並み。
田園の風景。
地方都市の駅前。
そこにある建築の多くは、
私が関わってきたレンガタイルの世界とは、
まるで別の社会のように存在しています。
ときどき、
自分の仕事が、この社会の中で、
どれほど小さな領域に属しているのかを、
思い知らされるような気持ちになります。
住宅の外壁に、
焼き物であるレンガタイルを、
しかも特注で製造して貼るという行為。
私の頭の中では当たり前のことでも、
一般社会から見れば、
理解されることすら難しい建築の一部の仕事なのかもしれません。
「オーダーで炻器質レンガタイルをつくっています」
そう説明しても、
ほとんどの場合、会話はそこで止まります。
結局は、
「タイル屋さん」
という一言で終わってしまう。
近所の人には、
浴室や玄関のタイルを貼っている内装屋のタイル職人だと思われている。
説明すればするほど、
余計に分からなくなる。
関係者でなければ、
理解できなくて当然なのです。
それでも私は、
この仕事を誇りに思っています。
豪邸の壁であろうと、
小さな建売住宅の一面であろうと、
原点は同じです。
「いい壁をつくる」
それだけです。
そこには、確実に、
工務店関係者や職人の審美眼の範囲を超えた
“決まりごと”が存在しています。
目地幅。
目地色。
割り付け。
役物の使い方。
コーナーの処理。
陰影の出方。
すべてに意味があり、
すべてに理由があります。
長年、朝から晩まで、
ただひたすら「いい壁面」を追い続けてきた人間にとって、
この独り言の場所でくらい、
本音を語ってもいいのではないかと思うのです。
昨今、空き家になった戸建住宅を、
若い設計者の感覚でフルリノベーションする事例をよく見かけます。
解体し、スケルトンにし、
大胆な空間構成に変え、
なるべくお金をかけず、
合理的に、美しく仕上げる。
それはそれで、とても素晴らしい仕事です。
ただ、リフォーム壁の一部に、
レンガタイルを採用する若い設計者は、
ほとんどいないように感じます。
焼き物に関わっていない限り、
レンガという素材は、
選択肢にすら上がらないのかもしれません。
もし、身近に、
具体策を持って待ち構えている物好きな建築人間がいたなら、
ふらりと選択肢に入る可能性はあるのかもしれませんが。
恋愛も、今やマッチングアプリの時代だと聞きます。
人と人が、
アルゴリズムによって出会い、
効率的に関係を築く時代。
素材のマッチングも、
本来は似たようなものなのかもしれません。
けれど、建築の世界では、
商品化した売り手が攻め込んでくるパワー型の流通と、
本当に素材を求めている人との間には、
まったく別の「マッチ感」が必要です。
本当にレンガを求めているオーナーと、
レンガを焼いてきた人間が出会う確率は、
驚くほど低い。
それでも、
不思議と、出会うときは出会うものです。
私は、年に一面、
能面の彫刻をしています。
かれこれ、16〜17年ほど続けてきました。
能面は、写しの世界です。
型があり、伝統があり、寸法があり、決まりがあります。
けれど、製作者の側に立って初めて分かることが、
あまりにも多い。
木の質。
刃物の入り方。
彫りの深さ。
漆の塗り。
胡粉の重ね。
家族に説明しても、
その違いはほとんど伝わりません。
能面の技術と塗りの世界に、
どれほどの差異があるかなんて、
理解する以前の話なのです。
博物館に並ぶ国宝の能面も、
私が彫った面も、
一般の人の目には、同じ一枚の面にしか見えない。
絵画の目利きも、同じでしょう。
価値とは、
知識と経験によってしか測れない世界が、
確かに存在します。
能面は、金のように価値換算できるものではありません。
生産性を問われるものでもありません。
建築の分野も同じです。
生産性のない、
金銭的価値判断のできない手仕事の部分が、
建築の魅力の中核を担っています。
有名人の豪邸を紹介する番組で、
石材の加工品や植栽、
アーティスト造作の間や、
名工の手による木工や左官を、
必死に解説する姿を見ると、
どこか滑稽さすら感じます。
こだわりは、自由です。
各自のものです。
納得し合える者同士が、
以前よりもずっと繋がりやすい社会になってきました。
それは、悪いことではありません。
むしろ、とても良い時代なのだと思います。
掘れば掘るほど、
日本の建築の中には、
本当に面白いことをやっている人たちが、たくさんいます。
私は、その中で、
レンガタイルという極めて限定された領域で、
壁をつくり続けてきただけです。
なぜなのでしょうね。
ほんとうに好きなのですよね、この仕事。
今日もまた、工場で私と無関係の、
一枚のレンガタイルが焼かれ、
今日もまた、現場で私と無関係の、
一面の壁が張り上げられています。
そのタイルや壁の前に立った自分が、
「ああ、もう少しここを……」と、
ほんの一瞬でも見て、話ができたなら、と。
「余計なお世話だ」と言われて、
帰る自分の姿まで、思い浮かびます。
そんなことを考えながら、
今日もまた、この仕事をしています。

kobeshimi