建築家と創りあげる外壁オーダーメイドレンガ・タイル

今見直したい、表情豊かなレンガタイルという存在

kudan

最近では、新しい「新建材」といわれる材料が建築雑誌につぎつぎと掲載され、大々的に広告されています。建築素材というものは時代に沿ってどんどん進化してきてはいますが、その反面、存在感の薄い、省略可されたもので溢れかえっているように感じます。

建築の目的やコスト、工期などでの豊富に選択できる現代建築においては、当然の流れかと思います。ただ、新建材の勢いでなにもかもその勢力に標準化されてはいけないと思う日々なのです。

私は、新素材には無い、古くから存在感のある焼きものが、手作り感のある建築にはぴったりだと思っています。素焼きの暖かさと素朴さが、他にはないどこか懐かしい、でも斬新な建築物を作り出してくれると考えます。建築に使われるレンガタイルは、時としてとてもこだわりを持って作られています。

しかし、建築に使われる焼きものすべてがそのような条件を要求される訳ではありません。レンガタイル同様、「焼いて生産する」という製法だけで、自慢気に「焼きものですから」(価値観があるのです。といわんばかりに、、、。)と言う人もいます。しかし、その存在感は驚くほどに軽くて薄っぺらく、焼いていることが逆に恥ずかしくなる事すら起きているのが現状なのです。

建築家は、それを良しとしているのでしょうか。いいえ、当然そこに憂いを抱え、葛藤を持っています。しかしながら、建築家も提示されている予算があり、クライアントの要望があります。レンガタイルを使いたい、という建築家の期待に応えていくためには、その価格を出来る限り抑える必要が出てきます。

ただし、ここに疑問が生じます。「何をもっての価格なのか、安い価格の焼きものとはいったい何なのか?焼きものにどんな結果を求めるのか?」どうも、共通言語が曖昧なままに 市場では高い安いの繰り返しです。

レンガタイルは新素材のように機械で大量生産し、規則的に同じものを作る、ということが「焼きものである限り」まず不可能なものです。希望のものを希望の数そろえるとなると、どうしても割高になってしまうのが現状なのですが、そうなると一般に使用してもらうことができなくなってしまいます。こだわりを持って作りたい、しかし、そこまでやると価格が見合わない。理想やこだわりよりも、(なんらかの理由によって)価格が選択の第一となってしまっていることが原因ではないでしょうか?

レンガタイルについて思うこと

少しレンガについてのお話をさせていただきます。私は、焼きものの建築素材の原点とも言えるであろう赤レンガというものがたまらなく好きです。古くから残る赤レンガの色は何とも言えない独特の風合いを持つものとなっています。それは、決してひとつの要因から素敵にみえることではないのですから。

先日、群馬県安中市のめがね橋と、第六号トンネルを見学する機会がありました。これらは、明治25年建設の日本最大の4連アーチの「碓氷第三橋梁」です。その壮大なスケール感に圧倒されることにもよりますが、その魅力は何といってもきっちりとした型にはまっていないことなのです。

輪郭が揃っていない、むしろゆがんでいることもあります。色についても、そのムラが甚だしいこともありますし、目地が色斑になっていることもあります。白華が出ていることもあれば、ところどころに苔が生えていることもあります。そしてレンガの表面が凍害で爆裂していることもあります。

しかし、これらすべてが本当に美しい、と思えるのです。たしかに、年数を経たからこそ現れる素晴らしい風合いなのではありますが、歴史的建造物という理由のみで簡単に済ましたくはないのです。当時の焼成法、還元の色ムラ、輪郭、テクスチャー、苔、レンガ表面の爆裂、それらすべての要因が、私たち人間の「心の眼」という感性に差し込み、心の奥を大きく揺らすのです。

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昔から私たち日本人になじみの深いレンガ素材に実際に手を触れてみると、その暖かい感触に心もほわんと暖かくなるようです。明治時代に作られたレンガの色は、当時の石炭焼きの窯の環境が、自然な土(原料)と炎とが影響しあって創られたものです。そしてそのレンガの不安定な輪郭、つまり個々の細胞輪郭の自然な歪みが、何とも微妙に壁面の雰囲気を構成しているのが見て取れます。

私たちはすべてにおいて、寸法が正しくなければ、とか、目がそろっていなければ、色合いは全て同じにしなければ、というようなことを主張しがちですが、それは建築においては、目的とする意匠が違えば、考え方も違ってくるということではないでしょうか。最終目的よりも、ひごろ慣らされてしまった、ちまちましたことに心を奪い取られるのではなく、レンガという細胞が織りなす美に関して、いちどじっくりつきあってみることで良い発見があると思います。

そもそも人は、本当の今の建築素材が織りなすもののように、寸分の歪みもないものを求めていたのでしょうか。確かに、石やガラスなどが規則的に同じサイズ、同じ感覚で並んでいるのも美しいと思えるものではあります。

このような建築素材にこそ求められる規則的な美というものも確かにありますが、焼きもののレンガはそうではないように感じます。日本人はこと高い精度を求め、そして誇る人種ではありますが、焼きもののレンガに関しては、その精度は本当に必要なものであったのかは、はなはだ疑問なのです。

私たちはないものねだりをする生き物です。何かが無い時代には、その無いものを求め、それを手に入れるためにどんどん進化をします。そしていつの間にか、無かったはずのものを手にいれることになっているのです。

販売の環境についても、小売がすたれ、大手の販売会社が取って代わります。しかし、古きよきものが新しいものに取って代わり、その人気も下火になってくると、「あの頃のあれは貴重だった」という意見が出始めるのです。懐古を始めれば、では昔あって今は無いものをもう一度手に入れるために、無理をして作らざるを得なくなってしまいます。こうして、永遠のないものねだりを続けていくことになります。その結果、今現在、日本のレンガは衰退の危機にさらされています。

石やレンガは、古くから私たちとともにある、身近な建築素材です。その歴史は古く、レンガという素材には他にはない厚さと重量があり、厚さや硬さがあるからこそ、建築材料としての魅力が建築家に感じてもらえてきました。しかし、昨今の建築事情で工期とか工事費を要するものは、基準に反するものとして、その活躍の機会をどんどん失ってきつつあるのが厳しい現状なのです。しかし、素材の持つ良さが建築家の潜在的な表現力の中で、また、混沌とした現在の環境の中で存在している事実があるのです。

昔からの製法である石炭窯で焼いた「レンガ」について、「魅力的だ」と回顧的に語るばかりでは、もうどうにもできないのです。評論家でいられるなら、それでもいいでしょうが、現在の日本建築の中でそんな人ごとな発信では、日本人が昔からずっと積み重ねてきた、美意識の蓄積とその高度な技術があっという間に、恐ろしいスピードでこの分野でさえ消し去られていくと感ずるのです。

現代日本に欠けているもの、そして今必要とされているもの

私は大変ラッキーなことに、能面彫刻を勉強する機会を得ました。それまで、深く古来の日本の彫刻技術のことなど触れる機会もなく、自分のメインである「建築での焼きもの世界」に浸かっていましたが、学ぶ機会を得たことにより、完成された造形「能面」を通して、室町時代の日本人の美意識と様々な技術を目の当たりにし、驚きを隠すことができませんでした。

それは、現代人が決して到達することのできない、当時の日本人の技術なのです。彫り、檜、のみ、彫刻刀、天然砥石。彩色、胡粉、膠、筆。彫金。漆。これらを学んで初めて、現代人では到底当時の日本人には追いつくことのできない偉大な技術が存在していたことを垣間見ることができるのです。技術も、材料も、そのひとつひとつが、現代の日本では手に入らない事情が押し迫っているのです。

そんな日常の趣味の体験からも、日々、建築の建築業界の置かれた現状を感ぜずにはいられません。同じような事態が存在するのです。簡単に作っては壊す現在の風潮。落ち着いて、じっくり何かに取り組むということが、根本的にかけてしまっているのではないでしょうか。

現代建築にありがちなガラスやアルミは規格通りの寸法で、美しく並べ立てることは確かにできるけれど、特にサイディングなどは味わいもなく、無味乾燥という言葉がぴったりではないでしょうか。その点、日本の焼きもの建築素材であるレンガは、地味ではありますが人間の暖かみのある表現多彩な素材となっています。

これは同じレンガでも、スペインで見たものとは全く異なる文化の中で出来上がった独特の美を持っていると言えます。そのレンガの中でも、特にせっ器質レンガタイルの評価は、今後さらに上昇していくべきものだと思っています。

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建築素材というのは、その建築の表情を決定する、極めて重要な選択要素である、と私は考えています。その材質自体の持つ特質、性質や、その材料自体から発する素材感、材質感が、建築の機能により効果的に発揮され、近隣環境の美化をさらに促進する重要なものであってほしい、とも考えています。

しかし、このさじ加減というのは大変に難しいところがあります。あまりハンドクラフト的になっても妙な違和感があるだろうし。かといって、冷たい工業製品的にもならないような細やかな気遣いも必要となります。これは、通りがかり的なその場限りの印象や意見を取り入れるとうまく行かない、と思っています。

だからこそ、自分は、絶えず比較検討でやってきました。自分にとって「美しいと思えるのか?」レンガタイルを焼く工程の中で、「何が影響してどこに秘密があるのか?」というのを探って探って、突き詰めてきたところがあります。

なぜ思うような色は出ないのか?なぜ寸法は、思う通りにいかないのか?絵の具のパレットのようにを自由奔放に使ってみたい感情にかられることもあります。しかし、これはその火加減にまかせてしまうデリケートな素材である、ということもよく分かっています。

それを踏まえた上で、使用する方にも、馴染み深い、いわば手の内に入った素材として慣れていただかねばならないと思っています。図面の寸法優先でただ規則的に並べることができないレンガタイルは、信頼できる職人にすべてをゆだね、ある程度の不揃いを壁面全体の中で調整してもらうことも必要になります。

昔は、選択するも無く、手づくりの素朴な材料が豊富にありました。どんどん大量生産へ進む中、均一な機械的な工業生産材料へと進化していきました。そしてそのボリューム感ある都市的なシャープなデザインばかりが求められました。

そして、今はどうなってしまったのでしょうか。市場の一般人は、いっきに浸透してきた現在の表層に、知らないうちに心も体も環境にならされてしまい、その無機質な状態に違和感すら覚えることもなくなってしまいました。時代による素材交換作業が自然となされてしまったのです。そんな現代で、うるおいのある風景を作りだすのは至難の業です。
それは、打ち合わせ製作上の苦心談あってのこと。

最近では、内容の伴わぬ表現手法がかなり見られます。例えば、「多色張り」「多種素材張り」「パターンのみに頼る」「極細目地無しボンド張り」などです。しかし、それで本当に満足いくものが出来るのでしょうか。

せっ器質レンガタイルを使用した建築物のイメージは、その色合いや質感によって大きく変わってきます。自分が作りたい建築物のイメージはどうなのか、までを徹底して絞り込み、こだわれば、ただ色が多ければよいとか、ただ大量にレンガタイルが貼ってあればよい、という風には言えなくなります。

その質感が、色合いがほんの少し違うことによって、その表情は一変します。優しく華やかな印象にも、寂しくて冷たい印象にも仕上げることができるのです。華やかで豪華な雰囲気を抱く建物もできるし、風流、わびさびを感じさせる建物に仕上げることだってできるのです。

また、四季の変化、天候の変化によってもガラッと表情を変えるのがせっ器質レンガタイルを使った建築物のもう1つの特徴であります。しかし、これらも徹底した打ち合わせがあってこそ仕上がるものです。

今現在、せっ器質レンガタイルに関わる人材が本当に少なくなっています。生産工場があるかぎり、従事している工場社員はおりますが、市場に出て建築家の意匠イメージを理解しながら、製作の専門技術者と意匠的感覚の会話を進めながら創作する人材は、ほとんど育っておりません。

専門職としての存在自体が、職業として認知される分野ではなくなっているからでしょうか?しかし、建築において、この素晴らしい素材の特色を際立った一分野として情報発信することにより、コツコツと潜在的ファンが育ち、生かされて現存していくと考えています。さてこの先どうなっていくのでしょうか。

私たち日本人が長年付き合ってきた建築素材としての焼きものについて、レンガについて、その存在意義についてどうか今一度考えてみていただきたいと思っています。